- - 小石川後楽園 - -
江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の屋敷の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園。
光圀は作庭に際し、明の儒学者の意見をとり入れ、
中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられた。
庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっている。
- - 北野神社 - 牛石 - ねがい牛 - - [今どきに言えば、パワースポット]
牛天神境内にある、なで石(自然石)は、源頼朝公が奥州へ東征の途中、此の地に休まれたとき、夢の中に牛に乗られた菅原道真公が現れ、願いが叶うことを告げられました。
その後、ここにあった牛に似た石を御神体とされ、大宰府天満宮より御魂を勧請されたと伝えられており、これが撫で岩の発祥で牛天神の始まりです。( 牛天神社と呼ばれていた )
[先ず願いながら真心を持ってねがい牛の頭の部分を撫でさすり、心に念じつつ何事も唯々誠心誠意純真な気持ちを持って夫々にお願いをしてください。天神様は、聞とどけて下さるでしょう]
- - 安藤坂(網干坂)- -
・都電の走った坂道、この坂道は、江戸時代は段坂になっていたという。
ここには39番の電車が上り下りしていたが、この路線はS43年9月に廃止された。
坂名は、坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことによる。別名の網干坂は諸説あるが、
坂下の神田川で漁業が行われていたことと関連している。
- - とうがらし地蔵 - -
昔、喘息を患っていたおばあさんが、医者から唐辛子を食べるのを止められていたにもかかわらず止められず、食べて亡くなってしまいました。
そんなおばあさんを憐れんだ近所の人が地蔵尊を祀り、お地蔵さまに唐辛子を供えたところ不思議と咳が止まりました。また喘息に苦しむ人が祈願したところ治ったことから、咳止めのご利益があると人気を集めた。 ご利益:【咳止め・喘息封じ】
- - 伝通院 - -
慶長7年(1602年)8月に徳川家康の生母・於大の方が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬した。
慶長8年(1603年)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て、彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。
家康は、当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師(慈昌)の言上を受けて、伝通院の建立を決めたという。
於大の墓
寺は江戸幕府から寺領約600石を与えられて、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となった。増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された
- - 極楽水 - -
極楽水がいつから当寺にあったかははっきりしませんが、いくつかの説があります。
1,親鸞聖人が東国を巡歴されていた際(1219年頃)に、当寺で休憩し一杯の水をご所望になられました。ところが井戸が深く水を汲むのに苦労している。この様子をご覧になって、手にされていた杖で地を掘ると、清水がこんこんと湧き出しました。その清水こそ「極楽水」である。
2.了誉上人が1415年に後に傳通院となる一宇をお建てになられます。その傍らに清い泉があったので吉水と名づけられました。名づけるとともにそこに隠棲用の草庵をお結びになられました。これが今の宋慶寺であり、極楽水である。
3,「ある人いう、極楽水は松平播磨守の藩中にあり、旧は石川山善仁寺の境内なり」とあり、結論として、「この辺りすべてを極楽水と唱うる。」
- - 吹上坂(禿坂)- -
「吹上坂 右当町北の方松平播磨守様御屋敷脇、宗慶寺前に有之候、右御屋敷内に有之候極楽水、高き所より湧吹上水とも申候に付き・・・吹上坂ト唱申候」。『御府内備考』にある坂名の由来だ。
つまり極楽水といわれた湧水が吹き上げていたため、それが町名となり、通る坂道が吹上坂と呼ばれるようになったわけだ。また別名の禿坂が面白い。
坂下は千川(小石川)が流れ、通称・播磨たんぼといわれた湿地帯であった。禿とは河童に通じる言葉である。河童は化けるという言い伝えあるが、いろいろなものに化けて人にいたずらしたのであろうか。 現在は共同印刷の裏側グラウンドの隅に、今も湧き出し、下の池を潤している。
- - 小石川植物園 - -
江戸幕府によって開園された小石川御薬園が前身の日本最古の植物園
東京大学 大学院理学系研究科付属植物園 ・通称・小石川植物園
元々は東京大学が開設した施設ではなく、江戸幕府により薬になる植物を育てる目的で今の東京都文京区に1684年開園された小石川御薬園である。
小石川植物園となったのは、1877年に東京帝国大学(現東京大学)が開設された際に附属施設として改称され、同時に、一般にも公開されるようになった。
・小石川養生所
江戸時代,幕府により江戸に設けられた窮民の医療を目的とした施設。
日本における官立病院のはじめといえるもの。町医小川笙船(しようせん)(1672‐1760)の建議を徳川吉宗が採り,1722年(享保7)小石川薬園内に施薬局を設け,低所得の病人,看護する人がいない者などを収容し,これを養生所と称した(長崎にできた養生所と区別するため小石川養生所ともいう)。
町奉行が管理し,与力・同心を属せしめ,小川笙船,林良適らの医師が出役
- - こんにゃくえんま - -
源覚寺(げんかくじ) は、東京都文京区小石川にある浄土宗の寺院。『こんにゃくえんま』で知られる。
当寺院の別称にもなっている『こんにゃくえんま像』は、鎌倉時代の作といわれ、像内から寛文12年(1672年)に修復された記録が発見されている100.4センチの木造の閻魔大王の坐像である。
運慶派の仏師が造立した仏像として文京区指定有形文化財にもなっており、文京区内にある仏像でも古いものに属する。閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴。(本田不二雄『東京近郊仏像めぐり』学研、2009)
右側の目が濁っている原因として、伝説が伝わっている。それによると、宝暦年間(1751年-1764年)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に供え続けたといわれている言い伝えによるものである。
以来この閻魔大王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から信仰を集めている。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、閻魔像にこんにゃくを供える人が多い。また毎年1月と7月には閻魔例大祭が行われる。
- - 無縁坂 - -
江戸時代の地図にもその名が見える無縁坂、その名前は、坂の上に無縁寺があったことに由来しています。現在、坂の北側には講安寺がありますが、ここにも無縁寺という庵があったようです。
講安寺は、漆喰造りの大変個性的なお寺。火事の多かった江戸の町で、建立以来300年たって現存しているのは、この防火建築ゆえです。
もうひとつ、この坂を有名にしたのは、さだまさしさんの名曲『無縁坂』でした。年若い「母」が、幼い「ぼく」の手を引いて、この無縁坂を上るたびに、いつもため息をついていたことを思い出す。というフレーズから始まるこの歌は、不遇だった自分の母親のことを大人になってから想い起すという物語の歌ですが、坂の名前の物悲しさとあいまって、聞く人に強い印象を残します。
- -不忍池(しのばずのいけ) - -
東京都台東(たいとう)区西部、上野公園の南西端にある池。周囲約2キロメートル、面積約2500平方メートル。上野と本郷(ほんごう)の台地間の谷にできた海跡湖の名残(なごり)で、姿を忍ばすことができるほどススキが多いのが地名の由来という。
不忍池に対して上野を忍ヶ岡(しのぶがおか)とよぶ。1625年(寛永2)天海が忍ヶ岡に寛永(かんえい)寺建立の際、この池を琵琶(びわ)湖になぞらえ、池中の島に弁財天を祀(まつ)り竹生(ちくぶ)島に模してから名所となった。
現在、池は三分され、北は上野動物園分園の水上動物園、南はハスの美しい池、西はボート池となっている。
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